有明海の西側を諫早方面へ南下します。干拓事業を進める諫早湾に架かる6kmもの橋のような
干拓堤防道路を通って
島原半島の付け根、雲仙市へと渡りました。
このまま長崎へ直行するつもりだったけど、時間的に少し余裕があったので思い切って島原半島を1周することに。
半島の海沿いを雲仙・普賢岳を右目に時計回りに周ります。
島原市内に入ると如何にも復元したような島原城が見えてきたので、一応お堀周って近くから写真を1枚。
その後は市内をスルーして、南島原市方面へ南下しました。
道中いくつも見られた「世界遺産 島城まで ◯ km」の立て看板。
天草では世界遺産を逃していたので、ここではしっかり押さえておきたかった。そして田園地帯の小高い丘にそれはあった。
島原湾を望む高台に広がる田園。その先に世界遺産であり、島原の乱の終結地である原城跡があった。
駐車場はあったとしても遠かったので、一気に本丸跡近くまで入り込み、路肩スペースに駐車した。
クルマを降りると土塁の上に猫がいて、こちらを見守っている。招き猫か、かつての一揆軍のキリシタン兵の化身か。
一番の高台にある本丸跡に登ってみる。眺望が良く、天草の島々が遥かに見渡せた。
こんな穏やかな土地だが、かつての島原の乱の最終舞台であり、老若男女37,000人と言われる一揆軍の戦没者や処刑者と
思われる人骨やクルス、ロザリオなどが出土されている。
そもそも島原の乱とは、カリスマ少年・天草四郎率いる島原・天草のキリシタン&農民の一揆軍と、幕府の討伐軍との戦いで
討伐軍には宮本武蔵も参戦していたようだ。
発端は島原藩の島原城築城などによる財政逼迫やキリシタン弾圧で起こった一揆で、時を同じくして天草でも同様の弾圧や
石高に見合わない年貢の取り立てなどによって蜂起した一揆が、一国一城令で廃城になっていた原城に集結するカタチで
籠城戦を繰り広げた乱のこと。
単に宗教戦争と語られがちな島原の乱だが、実はそう単純な構造でもなかったようだ。
この島原の乱以降、幕末〜明治にかけての戊辰戦争までの230年近くは、世界に誇る江戸時代の太平の世がつづくことになる。
2時間半くらいかけて島原半島を1周して、一路長崎の街へ向かうのであった。
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<Canon EOS 6D + EF24-105mm F4L IS USM>
天草四郎像と原城十字架
本丸跡から三の丸跡方面
干拓堤防道路
雲仙方面
雲仙・普賢岳
諫早方面
ピョコピョコ飛ぶ魚を狙うハンター
島原城
普賢岳
原城猫
シローちゃん
十